日帰りバス旅行 10/16(水)
今年の日帰りバス旅行は申込期日までにお申し込みがあったのは25名でした。
運営委員会で委員は参加者多数の時はご遠慮願いますと言うこともお話ししてあったので改めて、参加をお願いしましたが、開催できる人数には、まだ数名足りませんでしたので、委員それぞれで今まで参加してくれていた人にお声をかけたところ34名の申し込みがあり、旅行会社に開催決定をお伝えしました。その後。2名増えて36名となりましたが、昨年度40名以上あった申し込みが35名になったこともあり、新規申込者数を新藤さんにお伝えしませんでした。旅行の2日前に確認の電話がはいり、参加数36名をお伝えしました。
参加が増えるのは問題なく出来ますが、欠員が出た場合、費用が発生しますのでそのようにしました。
旅行当日は雨が心配でしたが、最後まで曇りで過ごしやすいバスの旅となりました。八石小学校では学校内にバスをとめさせて頂きましたが、5中は交通が少ないので、路上駐車させていただきました。車を駐車させるときにちょうど、先生らしき車が路地に入ってきましたが、なんとかすれ違い出来ました。5中の北側の西にある駐車場に車体の前方が入っての切り返しでしたので、将来、駐車場の道路協境界部分にブルックを積まれたりすると5中の場所は使えなくなるもしれません。更に時が進にみ予定されている道路が出来るとそれを利用することになると考えられます。
さて、急遽バス行程に、一箇所大丸屋が増えたため、当日バスに乗り込むときに他の資料にプラスして参加者にお渡ししました。
時間通りに出発し、高速手前になると、ご挨拶をさせて頂き、添乗員さんから、説明をうけました。
最初に追加となった大丸屋につくと撮影器具を持った人たちがやってきて「テレビですがインタビューしたい」からと声をかけられました。私たちが去ったともそのままインタビューを続けておりましたから、私たちがTVに写ることはないでしょう。
干し芋屋さんは実は石屋さんで入口の前には3mの高さはある石のオブジャガあり、「この石は何の形に見えるでしょうか」と「ゴリラ」と私は。芋以外にもテーマが有り答えは後で、と言ってましたが教えてくれませんでした。つまり番組をみてくださいとのことでしょう。バスに戻るとインタビューを受けた他の人から、答えはトトロ出でてくる「あ」で始まる名前だと、ないじゃん。なんか怪しげな人たちでした。住所と年齢電話番号を書かされ、損した気分です。
(さて、目的地、茨城(いばらき)と言えば釣りバカ日誌「はまさき」を思いだし口にしましたが、よもや、旅行の翌日に主役の西田敏行さんがお亡くなりになったところが発見されるとは。)
さて、茨城と言えば那珂湊ですが、予約が取れずに水戸の山大にて昼食をとりました。
(那珂湊ではお店に入ると韓国のり発見。ショックでした。或いは愛知県産であったりして茨城県のものは余り見当たりませんでした。)
お昼に魚や山大に入ると一階には生魚が発泡スチロールのなかに入れて販売されておりましたが、入口には「築地から直で仕入れた云々」( ̄∇ ̄)😁
しかし、海鮮丼、異口同音「おいしい」と同じテーブルのひとから。バスに乗って近藤さんや小清水さんもそのように仰ってました。
商店街の一角にこじんまりしたお店があり、並びには雑貨屋さんや写真屋さん和服販売。反物販売等のお店が。
そんな所なので、駐車場は無く店の前にバスを横付けして乗り降りしました。TVで水戸駅の近くに黄門様の像があるとやっていたので、次に向かうときに眼をこらしていたら、案の定、広い交差点の脇に一人たたずんでおりました。( ̄∇ ̄)
次に向かった別春館は梅酒の醸造場で見学と購入が出来ます。
庭には一本の竹筒から水が流れており、醸造するものと同じ物をながしているので飲めるし、お持ち帰りも出来ました。水戸の黄門様ゆかりの店名と人形等は徳川水戸家の許可を取り営業しているとのことで、説明をしてくれている6代目となる若社長と代表とは気のおけないの中だと言っておりました。梅酒も三種類有りますが、それ以外にも清酒、芋焼酎、ウイスキーを作り始めたそうです。すごいのは酵母を日本の酒造会社の4割?近くに供給しているとのお話でした。
お酒の後は、いよいよ笠間の桧佐陶工房、さほど大きく感じない売店ですが、60名以上の陶芸家の作品を展示していると言うことで、食器や植木鉢の実用品から芸術的な作品が置いてあります。食器にしても植木鉢にしてもハリネズミや猫さんをあしらった可愛い物が沢山有り、常に展示品は進化を続けているのかのと感じました。それはHPで見た物を探しましたがすでに完売されているらしく見当たりませんでした。私は箸置きとこれに合う小皿の組み合わせを見つけ3組お持ち帰りしました。敷地内では、土をこねて、これから芸術作品を作ろうとしている方たちだろうか別の建物の窓越しに見えました。
最後は、筑波海軍航空隊記念艦ですが、かつての飛行場の跡地を利用して敷地内の奥には病院がありました。そこは元々滑走路上に当たるところにも被さって建っております。入口でHP用の記念写真を撮って頂き引き続き説明を受けました。
鹿児島の知覧特攻隊はここで訓練を受けてから飛び立っていったそうです。敗戦後はしばらく学校等に使われていて、その後、しばらくは閉ざされておりましたが、永遠の0、ゴジラの撮影地として脚光を浴び、現在に到ったようです。
永遠の0より当時を振り返り戦争の悲惨さを訴える遺品の展示と記録映画として特攻隊と呼ばれ零戦にのり戦死していった中、一人だけ生き残った方が、当時の記憶をよみがえらせ思いを馳せらせインタビューに答えておりました。
秘密の地下壕を知る時間的余裕はありませんでした。一年後くらいにはそこも見ることが出来るようになるそうです。
(写真/野寺町会2丁目副会長 藤島伸太郎)
(文/野寺町会会長 野島義永)